ixima kuniyosi exhibition ” m a s k “

生島国宜 個展 「面」

ixima kuniyosi exhibition

” m a s k “

2 0 1 5 . 5 . 2 5 ( mon ) 〜 3 1 ( sun )

1 3 : 0 0 〜 2 0 : 0 0

@ sigekiba
092-406-3513

※ closing party 5 . 3 1 sun 1 9 : 0 0 〜  
@ &LOOSEN 同ビル1F

ixima

生島国宜  ixima kuniyosi

画家。2003年武蔵野美術大学卒業。2006年より福岡市薬院のギャラリー「IAF SHOP*」スタッフ。絵画の他、パフォーマンス、インスタレーション、イベントオーガナイズ、展覧会企画なども行いながら絵画と美術を基にその周辺を模索している。2014年にはファッションブランドDiorの企画展『Esprit Dior』にて創業者Christian Diorの肖像画を委託制作。現在、那珂川町在住。
http://iximakuniyosi.blogspot.jp/
*

世の中には、圧倒的多数の縁もゆかりもない人たちがいる。
路上ですれ違う彼らと心を通わすことなど不可能だし、私のことを分かってもらおうなどと思うことはナンセンスだ。
親兄弟、友人たちにすら、絵を介して、私の記憶や想像力を理解して欲しいなどと思わない。

私は人を描いているが、人間理解のために描いているわけではない。
絵になりやすいものがある。
人は絵になりやすい。
人の姿をしていれば誰でもいい。
目鼻口が分かればいい、無くてもいいならそれでいい。
絵はただの配色であって、その配置の理由を問うなら、それはただの物語でしかない。

絵のモデルに選ぶ人物は、ほぼ私の知らない人物の写真である。
彼らについて興味がないわけではないが、その人物像や肖像の物語を利用して、私の物語を描いているに過ぎない。
私の物語ですらない。

目と口と鼻を並べる、その横に白や青を乗せる、筆の描線がある、ただその配置の関係性だけで人は勝手に物語をつむぎ始める。
絵とはそういうものだろう。
私や誰かが、絵を見てそれについて感じるものがある。
しかもそれが独自の内面でリアリティを持ち、他人と相容れない。
私が作り出したはずのものが、もはや他人の目に触れると別の物になるのだ。
それを言語化すれば物語になるだろう。

今は、個人主義の時代だと思う。
個人がそれぞれ独立して生き、人々を結びつける共通の人生訓はどれも軽薄に思える。

私が行なうことは、絵に特別な情報を与えないことであると思っている。
私は私の物語にあまり興味がない。
だから私の絵も、私にとって、物語の無い、もっと虚しいものであってほしい。

そういう虚しさをたたえたものを人がどう見るか、には興味がある。
人が孤独でいる時の、惨めさと愉快さと満足感というものは、絵の充実感に似ていると思う。


生島国宜
ixima kuniyosi